no title1: LingLing ★@\(^o^)/ 2014/05/29(木) 22:25:59.70 ID:???.net
■「石窟庵(ソクラム)仏像、日帝に略奪されていなかった」
石窟庵(ソクラム)本室の本尊仏の前から石窟の入口側を眺めた様子。入口の両側の二本の柱の脇に
それぞれ空いている龕室が見える。国内学界はこの龕室にそれぞれ仏像があったが、日本人たちが
盗み出したものとこの間推定してきた。

慶州(キョンジュ)石窟庵(ソクラム・国宝24号)は韓国美術史の宝だ。 だが失なわれた宝物もかなりになる。
本室内の五重の塔と、本室周壁の浮彫像の上の龕室仏像が代表的だ。 本室の本尊仏とその後方の十一面
観音菩薩浮彫像の間にあったと言われる五重の塔は、現在国立慶州博物館が所蔵中の千佛千塔(1913年の
1次保守工事中に発見)と一対の石窟庵内部の塔だ。

1909年に曾禰荒助(そね・あらすけ)朝鮮統監が訪問した後に無くなったと伝えられている。 菩薩像などが
入っていた龕室は全部で10個だが、その内、本室入口の左右にある龕室2ヶ所が空いていて、その中に
元々は2体の仏像があったいうのが通説だ。

文化財学界はこの遺物を日本人たちが盗み出したと見て、最も至急に還収しなければならない文化財だと
力説してきた。

石窟庵(ソクラム)の元来部材と過去の写真を比較しながら、石窟の円形を研究してきたハン・ジョンホ東国
(トングク)大考古美術史学科教授が、最近破格的な主張を提示した。

二つの龕室には当初から仏像がなく、実際には本室の床にあったと考えられてきた五重の塔と千佛千塔が
安置されていたということがその骨格だ。 龕室仏像盗難説は後代に作り出した話だということだ。彼は24日に
開かれた韓国古代史探求学会の発表会でこのような内容を盛り込んだ‘石窟庵千仏小塔の性格と奉安処再考’
という論稿を公開して論争に油を注いだ。

ハン教授は消えた仏像の容貌や搬出経緯などに関する情報がないということに注目した。五重の塔は1913年
の補修後に刊行された日本人たちの記録に様式と位置が説明されており、日本人の自宅に運ばれたとか、
統監の訪問直後に無くなったなどの搬出経緯が言及されている。

しかし、仏像は柳 宗悦が1919年に書いた石仏寺関連文と同じ年に刊行された<新羅旧都慶州誌>等に、紛失、
搬出されたという言及があるだけだ。 総督府が1938年に出した<仏国寺(プルグクサ)と石窟庵(ソクラム)>には
「龕室に創建当時何が安置されていたのか、いつなくなったのかも分からない。大正2年(1913)石窟内で2体の
石像が発見され、どこかに無くなったという巷間の説には信憑性がない」という記録まで窺える。

等身大で2トン近い龕室仏像は搬出が容易でない。ハン教授は「龕室が床から4m上にあり、1次補修前に
アーチ型天井が崩壊の危険に直面していた状況であったことを勘案すれば、仏像を持ち出したということには
納得し難い」と述べた。

本室の床に二つの塔を奉安する空間がふさわしくないということもその通りだ。石窟庵内に安置された二つの
塔の元位置は、十一面観音像の前と本尊像の前にそれぞれ配置されていたと推定されてきた。しかし十一面
観音像と本尊仏との距離は1mに過ぎず、かつて美術史学者コ・ユソプも「あまりに狭くて窮屈な感が拭えない」
という見解を出したことがある。

>>2以降につづく

http://japan.hani.co.kr/arti/culture/17464.html

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