創造する伝統実行委員会事務局長で、音楽プロデューサー・野原耕二の事務所を訪ねると、敷物の上に真新しいハープのような楽器が横たえられていた。
小柄な女性でも抱えられるほどの大きさ。これが公益財団法人韓昌祐・哲文化財団の助成を受けて復元した正倉院御物の「百済琴(くだらごと)=轉軫箜篌(てんじんくご)」である。
音を響かせる胴の部分は桐、支えとなる腕木の部分は黒柿と花梨製。胴は1本の山桐を仏師がていねいに彫り抜いて作る。野原は絹糸を取り出し、糸巻を使って胴と腕木に丁寧に張り、チューニングした。「轉軫」とは糸巻のことをいう。
正倉院に残る数々の楽器の中では、みごとな螺鈿(らでん)細工のほどこされた「螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんびわ)」がよく知られている。箜篌も世界で唯一、正倉院に2張残されている貴重な楽器である。
天平の昔、箜篌は琵琶や琴、横笛などとともに、どんな音楽を奏でていたのであろうか。
最初は新羅琴の復元を手がける
野原は以前大きなヴァイオリンをはじめ弦楽器を扱う会社に勤め、銘器ストラディバリウスの輸入まで手がけていた。だが世界のヴァイオリン取引の不透明さに嫌気がさして音楽プロデューサーに転じる。それからは国内での行政文化イベントの構想作りから、企画・制作までを手がけてきた。
やがて国立劇場とともに正倉院御物の楽器を復元する仕事を任され、国内外の演奏会を開催するようになった。ヴァイオリンの輸入や修理の仕事で得た楽器の知識が役立ったのである。
「最初は国立劇場に頼まれて、正倉院に残る新羅琴(しらぎごと)の復元を手がけました。その後、国際交流基金に『循環するシルクロード』をテーマに、正倉院を出発点とした復元楽器による文化交流を提案。助成金をいただくことができたんです」
復元楽器でコンサートができるほど楽器の数を揃えるには、大きな資金が必要である。野原は、シルクロードの終着点といわれる正倉院に残るさまざまな楽器やその断片、資料の研究を進め、やる気のある職人に頼んで次々に楽器を復元していった。
「2002年の日韓共催W杯の際には舞楽『納曽利』(なそり)を日韓で共演しました。でも、もう朝鮮半島には日本と違って唐の時代をそのまま伝える楽器がなくなっていたのです。中国でも同じです。似たような楽器はあるものの、ワイヤー弦を張ったりアンプにつないだりしていて、まったく別物になっています」
中国へ演奏旅行に行ったときには、もう本国では失われた楽器が日本では残っていて今も音楽を奏でていることに大きな反響があった。野原はこれまで箜篌だけで12台を復元している。そのうち何張かは、香港大学や香港中文大学が教育用に使う目的で購入している。
かつて日本に文化を伝えた国に、日本から文化が還流していった例である。
「日韓」関係は古くまで遡ればぎくしゃくした期間が短い
野原には残念でならないことがあった。日韓関係は国民同士の交流がさまざまな分野で進み、密になっている。その反面、政治がぎくしゃくするたびに影響を受ける。日本の音楽史をひもとくと、古代に朝鮮半島から楽士がやってきて、大陸や半島の音楽を国内に伝えていた。
長い歴史を見ればぎくしゃくしていた時期の方が短いのだ。野原は楽器の復元を通じて文化交流を続けることで、両国の関係作りにも貢献したいと思っている。日韓に共通する現代の音楽の要素を取り込んだ新作を作れば、新しい音楽運動を起こすこともできるだろう。
「日本と朝鮮半島の歴史をさかのぼれば、西暦453年允恭(いんぎょう)天皇が崩御した際に、新羅王が楽人を80名遣わしたという記録があります。554年には百済から楽人4人が渡来して百済楽を、612年には百済の味摩之(みまし)が帰化し、伎楽を伝えました。
さらに684年の正月には高麗、百済、新羅の楽人たちが大極殿で演奏と舞を披露しています」
それが長い時間を経て日本で発展し、現代の宮内庁雅楽部にまでつながっている。正倉院に収蔵されていたおかげで、現代の日本人は天平時代の箜篌がどんなものだったかを知り、復元楽器で音まで楽しむことができる。
https://www.j-cast.com/trend/2017/08/10305571.html?p=all
小柄な女性でも抱えられるほどの大きさ。これが公益財団法人韓昌祐・哲文化財団の助成を受けて復元した正倉院御物の「百済琴(くだらごと)=轉軫箜篌(てんじんくご)」である。
音を響かせる胴の部分は桐、支えとなる腕木の部分は黒柿と花梨製。胴は1本の山桐を仏師がていねいに彫り抜いて作る。野原は絹糸を取り出し、糸巻を使って胴と腕木に丁寧に張り、チューニングした。「轉軫」とは糸巻のことをいう。
正倉院に残る数々の楽器の中では、みごとな螺鈿(らでん)細工のほどこされた「螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんびわ)」がよく知られている。箜篌も世界で唯一、正倉院に2張残されている貴重な楽器である。
天平の昔、箜篌は琵琶や琴、横笛などとともに、どんな音楽を奏でていたのであろうか。
最初は新羅琴の復元を手がける
野原は以前大きなヴァイオリンをはじめ弦楽器を扱う会社に勤め、銘器ストラディバリウスの輸入まで手がけていた。だが世界のヴァイオリン取引の不透明さに嫌気がさして音楽プロデューサーに転じる。それからは国内での行政文化イベントの構想作りから、企画・制作までを手がけてきた。
やがて国立劇場とともに正倉院御物の楽器を復元する仕事を任され、国内外の演奏会を開催するようになった。ヴァイオリンの輸入や修理の仕事で得た楽器の知識が役立ったのである。
「最初は国立劇場に頼まれて、正倉院に残る新羅琴(しらぎごと)の復元を手がけました。その後、国際交流基金に『循環するシルクロード』をテーマに、正倉院を出発点とした復元楽器による文化交流を提案。助成金をいただくことができたんです」
復元楽器でコンサートができるほど楽器の数を揃えるには、大きな資金が必要である。野原は、シルクロードの終着点といわれる正倉院に残るさまざまな楽器やその断片、資料の研究を進め、やる気のある職人に頼んで次々に楽器を復元していった。
「2002年の日韓共催W杯の際には舞楽『納曽利』(なそり)を日韓で共演しました。でも、もう朝鮮半島には日本と違って唐の時代をそのまま伝える楽器がなくなっていたのです。中国でも同じです。似たような楽器はあるものの、ワイヤー弦を張ったりアンプにつないだりしていて、まったく別物になっています」
中国へ演奏旅行に行ったときには、もう本国では失われた楽器が日本では残っていて今も音楽を奏でていることに大きな反響があった。野原はこれまで箜篌だけで12台を復元している。そのうち何張かは、香港大学や香港中文大学が教育用に使う目的で購入している。
かつて日本に文化を伝えた国に、日本から文化が還流していった例である。
「日韓」関係は古くまで遡ればぎくしゃくした期間が短い
野原には残念でならないことがあった。日韓関係は国民同士の交流がさまざまな分野で進み、密になっている。その反面、政治がぎくしゃくするたびに影響を受ける。日本の音楽史をひもとくと、古代に朝鮮半島から楽士がやってきて、大陸や半島の音楽を国内に伝えていた。
長い歴史を見ればぎくしゃくしていた時期の方が短いのだ。野原は楽器の復元を通じて文化交流を続けることで、両国の関係作りにも貢献したいと思っている。日韓に共通する現代の音楽の要素を取り込んだ新作を作れば、新しい音楽運動を起こすこともできるだろう。
「日本と朝鮮半島の歴史をさかのぼれば、西暦453年允恭(いんぎょう)天皇が崩御した際に、新羅王が楽人を80名遣わしたという記録があります。554年には百済から楽人4人が渡来して百済楽を、612年には百済の味摩之(みまし)が帰化し、伎楽を伝えました。
さらに684年の正月には高麗、百済、新羅の楽人たちが大極殿で演奏と舞を披露しています」
それが長い時間を経て日本で発展し、現代の宮内庁雅楽部にまでつながっている。正倉院に収蔵されていたおかげで、現代の日本人は天平時代の箜篌がどんなものだったかを知り、復元楽器で音まで楽しむことができる。
https://www.j-cast.com/trend/2017/08/10305571.html?p=all
引用元: ・【文化】「日韓」関係は古くまで遡ればぎくしゃくした期間が短い 日本に文化を伝えた朝鮮半島[8/10]
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