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    タグ:ノーベル賞候補

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    no title1: ねこ名無し ★@無断転載は禁止 2016/10/11(火) 22:51:38.08 ID:CAP_USER
    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授)

     今年もノーベル賞の季節がやってきた。ノーベル賞は好意的にみれば、人類の英知の進展に対する世界をあげての賞賛と顕彰の機会ともいえるが、別の側面でみれば愛国心的な名誉欲が露わになる場ともいえる。後者からみれば、日本人もしくは日本出身の人たちが受賞することは、同じ日本人として名誉に思う気持ちが、国民の多くから自然に沸くだろう。

     今年も日本はノーベル賞の受賞者を輩出した。これ自体はとてもおめでたいことである。ノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅良典東京工業大学栄誉教授は会見で「基礎研究を日本はもっと大切にして、役立つとか役立たないとかで科学研究を断定的に評価すべきではない」という趣旨の発言をしたが、筆者も大いに賛同したい。

     経済学者のポーラ・ステファン教授(アンドリュー・ヤング公共政策大学)の指摘によれば、科学の生産性(進展)を決めるキーは、当たり前のようだが科学者のやる気だ。そしてこのやる気は、従来の知的資産の蓄積や本人の知的好奇心も重要なのだが、やはり金銭的な仕組みが決定的な要因となる(ポーラ・ステファン『科学の経済学』日本評論社)。

     例えば、先に「発明」や「発見」をした科学者への先取権認定の仕組みや、研究のための資金調達方法、研究者の雇用の仕組みはもちろん重要だ。ただ、有能な科学者たちの世代ごとの変化は、その国の研究開発投資に大きく依存している。

     研究開発投資(R&D)のGDPへの比率でみると、有能な科学者たちが世代ごとに生まれるのかどうかがかなりはっきりする、とステファン教授は指摘している。日本は米国と並んでこの「研究開発投資/GDP比率」が最も高いグループに所属する。実際に1980年代後半から21世紀の今日まで世界でトップもしくはそれに準ずる地位を維持してきた。ノーベル賞の受賞者が21世紀になって日本で相次いでいる背景には、この80年代後半からの経済規模に見合った研究開発投資の高水準があることはほぼ間違いない。

     ちなみに最近では、韓国が猛烈に研究開発投資を増加させていて、「研究開発投資/GDP比率」でみると日本から世界一位の座をここ数年奪取している。また博士号取得者数、特許権出願数などで中国、韓国が猛烈にその件数を増やしていることも注目される。後藤康雄氏(経済産業研究所上席研究員)は、特に海外向け特許の出願件数の動向をみて、米国、韓国、中国が順調の増加スピードを上げている中で、トップ水準にあった日本が次第に低迷し始めていることに警鐘を鳴らしている(ステファン前掲書解説)。

     21世紀に入ってから、日本は米国に次いでノーベル賞の受賞者が多い国だ(自然科学部門のみ。日本出身者含む)。だが、有能な科学者たちは世代ごとにまとまって生まれる傾向が強い(コホート効果という)。コホート効果が「研究開発投資/GDP比率」の規模や、また科学者たちの(雇用、研究面での)金銭的なインセンティブに依存するならば、やがて中国や韓国に日本はアジアの盟主をとってかわられる日も遠くないかもしれない。

     このことは単に愛国心的な名誉欲を傷つけるだけではない。日本の科学技術の進展にとっても脅威である。なぜなら有能な研究者たちは、国境をまたいで移動することが一般的だ。つまり従来の欧米だけでなく、中国や韓国の研究者市場に有能な人材が流出する可能性が大きくなるからだ。このことは、特にふたつの意味で日本にリスクをもたらす。ひとつは経済面だ。科学技術の進展は、経済成長をもたらす大きなポイントである。最近の経済学では、研究開発投資や高度な人材育成が、経済全体に波及するプラスの効果を重視している。豊富な実証研究も存在していて、内生的な経済成長には科学の発展こそキーになる。つまり研究へのお金を出し渋り、研究者たちの働き方の仕組みをおざなりにすれば、長期的には日本の国力は衰退する。

    http://ironna.jp/article/4127

    >>2以降に続く)

    引用元: 【田中秀臣】ノーベル賞候補の日本人研究者はなぜ中国と韓国を目指すのか[10/11] [無断転載禁止]©2ch.net

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    no title1: ねこ名無し ★@無断転載は禁止 ©2ch.net 2016/07/12(火) 00:48:09.02 ID:CAP_USER
    「この国にも希望がある。学生たちの探求欲、世界一流の学者たちが話す難しい講演を最後まで聞いて理解しようとするその強靭な探求欲には頭が下がる。韓国の明日は明るい」。

    米国ユタ大学教授に在職中だった李泰圭(イ・テギュ)博士(1902~1992)は1964年9月、しばらく帰国して当時の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領を表敬訪問した席でこのように話した。
    李教授の言葉に鼓舞された朴元大統領は、彼を含めて海外に出て行っている科学者たちの帰国をすすめ始めた。それから9年後、彼はユタ大の教授職を捨てて永久帰国した。

    国内第1号の化学博士であり大韓化学会の前身である朝鮮化学会の初代会長である彼は、最初に国立墓地に安置された科学者だ。彼は日帝強制占領期間だった1931年、日本で差別と経済的困難に打ち勝って理学博士学位を取った。
    大学の師匠であり当代の日本の最高化学者だった堀場信吉教授は早くからそんな弟子の能力を高く評価して「学問に民族が別にあるものか」と朝鮮人だった彼を日本の大学教授として強く推薦した。

    教授として正式な任命を受けたが彼の好奇心はとどまらなかった。当代最高の大学者が集まっている米国プリンストン大学に渡った。彼はそこで理論化学を研究していたヘンリー・アイリング教授と運命的な出会いをした。
    2人が当時、共に研究していた双極子能率の計算についての論文は化学分野に量子力学を導入した初めての事例という評価を受けている。

    解放後しばらく帰国していた彼は1948年、再び米国ユタ大に渡りアイリング教授と研究を継続した。1955年、2人の姓を取って発表された「李-アイリング理論」は粘性物体の流れの性質を研究する分子粘性学の基礎となった。
    彼はこの理論で一躍世界的科学者の仲間入りを果たし1965年、韓国人として初めてノーベル賞推薦委員になった。1969年には韓国で初めてノーベル賞候補に上がった。
    彼が理論を研究していた真っ最中に6・25韓国戦(朝鮮戦争)が勃発した。家族の生死も分からなかった彼は研究にさらに専念した。後日、彼は家族に対する心配と思いを忘れるために没頭していた結果だったと振り返った。

    彼は不毛地帯そのものだった韓国の化学の礎を築いた。1945年解放直後、日本からしばらく帰国した彼はソウル大学の前身である京城(キョンソン)大学理工学部長とソウル大文理大学長として学問研究と教育定着のために努力した。
    1946年には大韓化学会(旧朝鮮化学会)を創立した。

    彼は1992年10月26日、大田(テジョン)KAIST(韓国科学技術院)の研究室から退勤後に亡くなった。政府は化学発展の礎を築いた功績を認め、彼をソウル国立顕忠院に安置することを決めた。
    彼が遺品として残した額縁には、彼の生涯の信念である「鋭い観察と絶え間ない努力」という言葉が記されている。

    ※本記事の原文著作権は「韓国経済新聞社」にあり、中央日報日本語版で翻訳しサービスします。

    http://japanese.joins.com/article/131/218131.html

    引用元: 【韓国】韓国人で初めてノーベル賞候補になった「国内第1号化学博士」李泰圭氏[7/12]©2ch.net

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